ベンジャミン・バトン 数奇な人生(映画)。
劇場に行きました。
生産調整で休みを取っている夫と、です。
休み中の夫は、昼に焼き立てパンを買ってきてくれるなど、ありがたいわ~。
ここからは映画の感想を少し。(ネタバレ注意です)
愛は永遠ではない。
愛は永遠だ。
命は永遠ではない。
命は永遠だ。
人は老いて醜くなる。
人は老いても美しい。
若さは素晴らしい。
老いることもまた素晴らしい。
そうしたテーマを
数奇な運命を持って生まれた、
ベンジャミン・バトンを題材に描いていたように思う。 ベンジャミン・バトンは、 老いて生まれ、成長ととともにに若返っていくので、 彼の人生そのものが象徴的な題材だと言える。
もうひとつ、この映画では「象徴」とも言えるものがある。
それは、駅の大時計だ。
腕のよい職人が作り上げた時計。
その時計は、針が逆に回り、時を逆に刻むのだ。
時計職人は、
時計が逆に回れば、時間が戻るだろう、
時間が戻れば、戦争で死んだ息子が帰ってくる、
そうした願いを抱いて、その時計を作った。
もしも時間が戻ったら。
もしも。
もしも。
もしも。
ベンジャミンの恋人、デイジーは、交通事故にあい、
世界的バレリーナという地位を失った。
その交通事故は、あまたの偶然の蓄積で生じた。
もしも、そのあまたの偶然が、たったひとつでも異なっていたならば、
その交通事故は発生せず、
デイジーは、足を骨折せずにすんだ。
もしも・・・。
映画の中で、交通事故の「もしも」は象徴的に扱われた。
美しい映像で、もしも、もしも、と繰り返された。
しかし、ベンジャミンは「もしも」を悔やむデイジーにこう言うのだ。
「もしも交通事故にあわなかったとしても、トップバレリーナとしての地位は、年齢的に保てるものではない。遅かれ早かれ、君は引退していたのだ」
と。
永遠に、トップバレリーナでいることはできない。
永遠はない。
対照的に、
ベンジャミンとデイジーの、永遠と思われる愛・・・。
物語の終わりで、
象徴たる大時計は、倉庫のような場所にあった。
大時計は、駅で長い時を刻み、
引退してなお美しく、時を刻んでいた。
ベンジャミンの「日記」は、娘に継がれ、
おそらく娘は、その子どもに譲るのであろう、
「あなたのおじいちゃんの不思議な人生よ」
と。
ベンジャミンは死んだが、彼の人生は彼の日記の中で生き続ける。
命は永遠ではない。
しかし、命は永遠・・・。
いずれも真実なのだろう。
~感想~
167分。
夫には長く感じられたみたいだが、わたしには長くなかった。
アトラクション的な要素はなかったが、とても興味深く、さまざまなことを考えさせられた。
映像技術
実年齢45歳のブラッド・ピットを、老けさせるだけでなく、ティーンエイジャーに見せる技術に驚いた。肌の色、はり、つや、透明感、そして目の輝き、幼さを残したあどけない表情。どう見てもティーンにしか見えない。「若く見える」と「若い」は別物だと確信した。
スクリーンの中のブラッド・ピットは、若く見えたのではなく、間違いなく本当に若かった。
若さと老い
十数年後、再会したデイジーの体型は、彼女が恐れていた通り崩れていた。下着からはみ出た肉のたるみなど、あえてその崩れを強調するかのような演出だった。かつてトップバレリーナだったころ、「体の線が大事なのよ」とデイジー。そう自慢するほどに完璧に美しかった。月日の積み重ねで、少しづつ崩れていったわけだが、その変化に観客は、「”ついさっき”、あんなにきれいだったのに…」と愕然とする。
永遠の愛
だが、ベンジャミンは、美しいからデイジーを愛していたのではない。たとえシワが増え、体型が崩れたとしても、その愛情は変わらない。観客もそう確信しただろう。
愛し合いながらも、別々の道を選んだ二人。しかし、時を経て、ベンジャミンが少年、幼児、赤ん坊へと姿を変え、最期を迎える頃、デイジーは彼のもとに戻ってきた。
老いたデイジーは、赤ん坊となったベンジャミンの世話をし、彼の最期を見届けた。
外見と中身
老いた姿で生まれたベンジャミンの心は若く、時が経つにつれ人生から多くを学び、成長していく。ベンジャミンが他人と違うのは見た目だけで、中身は同じなのだ。 ベンジャミンは言う。「僕は変わらない。僕はいつでも僕だから」と。
本当に大切なのは中身。外見は「魂の入れ物」に過ぎない。そう思った。
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